2022年3月22日 国境なき劇団キックオフミーティング第1部にて
東日本大震災当時、せんだい演劇工房10-BOXの工房長だった八巻寿文より、「国境なき劇団」についてお話させていただきました。
ぼくが話すことは「国境なき劇団」の定義や説明ではありません。想念のようなものです。
2002年にオープンした「せんだい演劇工房10-BOX」という施設が、まだモデルのない活動をしようとするときに、ある時は劇場を目指し、ある時は公民館のような公共施設を目指し、演劇が社会に役立つための活動をする、という意識を共有するためのキーワードであり宣言でした。
しかし、この文の最後にあるように「震災を体験した自分は、これから『国境なき劇団』をどう捉え直せるのだろう。落ち着いて観察して行きたいし、この概念は誰かと分かち合いたい。」と言ってからは、津波とともに心の中から消えていました。
仙台市は演劇が盛んで「劇都仙台」と言われますが、行政が文化に着手した「ハコモノ行政」と呼ばれる頃から、劇場が出来、演劇系の事業も立ち上がってゆきました。その頃の仙台市の演劇事業のあこがれが「ピッコロシアター」で、当時の事業担当者は皆、視察に伺ってはため息をついて帰ってきました。
その憧れの「ピッコロ劇団」が、むこうからやって来てくれたのです。一度の激励で終わるのかなと思っていましたが、役者と演出家を派遣して作品を創り相互に上演してくれたり。仙台の役者4人が1か月半ほど滞在して稽古した作品の巡回公演に出演させてもらったり。仙台の劇団の受け入れは何度も、6年ほどになります。思い出深いのは、子ども向けに体育館でも上演できる参加型の「学校ウサギをつかまえろ」です。これは阪神淡路大震災の時に初演した演目だったのです。支援の内容も、演目も、実は体験をもとにして考えられていることが時と共によくわかってきます。
ある時、気が付きました。目の前のこのひとたちが「国境なき劇団」だ。
そして、自分だけの中にある概念では「国境なき劇団」にはならないんだ。それは自分の外にあって、自分はそれと手を結ぶ関係でないと、姿を現さないんだ。自分だけでは消えるんだ。ということに気づかされました。
だから、私たちは複数で活動するという意味で「Theatrical People」であり「劇団」なんだ。そう思っています。これがひとつ目です。
わたしたちは被災地にいて、支援をいただいて、そして支援者でもある。という状況が長く続きましたが、そのことの整理がつかず、東北の演劇人はいまだに「自分は被災者かそうでないのか」で悩んでいます。何かのきっかけで震災を語ると、立ち止まってしまい、このぬかるみのような思考からいまでも解放されていません。これは支援を受けて感謝しても、いただいた恩を返せない「無能さ」を感じるからではないのか、と思っています。
東日本大震災のニュース映像を見て、阪神淡路大震災を体験した人が「今この時、何もできない自分が辛い」と言って泣きながら苦しんでいることを知ったとき、あまりにも気の毒で、被災地に立っている自分の方がよほど幸せかもしれない。と思ったほどです。
この「何もできない」という「無力感」から解放されたいと思っています。いただいた支援は心から有難く大事にいただいておく。そして、その恩を返すのは「別のチャンスに回す」と割り切ること。恩を返すチャンスはこれからやって来るんだと割り切って、備えるような気持ちが持てれば、心は開いて、押し付けでないなにか、寄り添える支援ができるのではないでしょうか。
最後にお話しすることは、これまで誰にも話したことがありません。ここで初めてお話しします。
自分で抱えきれないカタストロフを体験した人はアーティストになる可能性があります。カタストロフを乗り越えた結果、これまで見ていた風景が全く違って見えている可能性があります。しかし、自覚しないまま何年も過ぎると周りに合わせてしまい、自分では気が付かないでいる。という可能性があります。
その人がアーティストかどうか、発見できるのはアーティストです。だからアーティストは被災地に向かい、アーティストと出会い、活動を通じてアーティストだと気づかせてあげる必要があるんだと思っています。
「国境なき医師団」は医者だけの集団ではありません。医療活動の環境を作るためのいろいろなポジションがあります。同じく、いろいろなポジションがあるのが「劇団」です。だからいろいろな立場の皆さんとつながり活動して行きたいと思っています。
ぼくのお話は以上です。
スピーチ要約・文責 八巻 寿文