観客論|永山智行
演劇において、上演というあの時間と空間を創造するのはいったい誰なのだろうと考えるのです。かつてピーター・ブルックは、こう言いました。「どこでもいい、なにもない空間――それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ」。(「何もない空間」)
だけど、とわたしは思うのです。たとえば裸の舞台の上に一本の大根が置いてある。そしてそれをじっと見つめるひとりの人間がいれば、それはもう「演劇」と呼んでもいいのではないかと。
何かをじっと見つめ、目を凝らし、耳を傾ける、その行為の中にこそ、演劇の創造の源があるような気がして仕方ないのです。
能動的に受信する。観客と呼ばれる存在の、そんな行為こそが、演劇を強く支えているのではないかとわたしは思うのです。
今年も1月1日に大きな地震が起きました。また世界のあちこちでは紛争が続き、不意に穏やかな日常を奪われた人たちが、それでもどうにかその土地で今日を生きています。わたしにはその姿が、「非日常」という舞台の上に、不意にひっぱり出されてしまった人々のようにも思えるのです。そしてそれは、大きな災害や戦禍だけでなく、身近な誰かの死や、自身の病気や事故などによって、誰にでも起きうることだと思うのです。わたしたちは不意に、「非日常」という舞台の上に引っぱりだされてしまうことがあるのです。
もちろん、一刻も早く、みんなの力でその舞台から降ろしてあげることが一番大切なことです。そのことにわたしたちは力を尽くすべきだと思います。と同時に、その舞台の上にひっぱり出されてしまった人たちに心を寄せ、じっと見つめ、目を凝らし、耳を傾け、能動的に受信し続けることもまた、ほんとうに大切な行為だと思うのです。
客席に誰も座っていない劇場の、その舞台の上に取り残されることぐらい、人間の心を殺すものはないと思うのです。わたしを誰も見ていない、わたしの言葉に誰も耳を傾けない、そんな孤独。不意の不条理が誰かを傷つけたとしても、そんな孤独がその誰かの心を殺すようなことがあっては決してならないはずです。
わたしは、あなたを、じっと見つめている。ずっと、あなたの音に、耳を澄ましている。強く、強く、その存在でいられたらと思うのです。
永山智行
・劇団こふく劇場