その人の物語を《読む》こと|谷瀬未紀

「他者の人生を生きる」

演劇人たちが、当然のように成しているそれは、実のところ非常に特異なことなのだと思っている。

我々(あえて「我々」と云う)は、全く知らない他人にも、それぞれの「物語」があることを、身体の細胞レベルで《知っている》のではないか。

誰かの物語を自身に取り憑かせるように「おろす」時、言語だけではなく振る舞いとして表現する時、それはもはや「想像」という事柄とは別の次元にある行為であると確信する。

そうして「他者の人生を生きている人」を観る時、観る者には2つのことが起こりうる。

ひとつに「世の中には知らないことがあるのだ」と識ること。

もうひとつに「その人生を知っている-これはわたしのことだ」と感じること。

私は子どもの頃には、図書館中の本を読むことで「まだ知らない世界がある」と、《自分が知ってる世界への絶望》を保留することが出来た。
長じては、特に演劇で「その感触、その気持ち、わかる」という体験をし、その事によって「私の気持ちも理解された」ように感じられた。

そのほとんどが「悲しみ」についてのことで、私の中にある《悲しみ》が理解されることで、息を吹き返す体験につながるのだった。

そう、「他者」の中には、常に「わたし」も含まれる。

大きな悲しみを抱えた人の人生を「演劇作品にしよう」というわけではない。

我々には、「その人の人生」の物語を《読む》力があるのではないか。

ジャッジや同情は必要ない、ただ《読む》ということ。

(それは「言葉を聴く」以上に、声を身のうちに響かせ、時に言葉のない触れ合いから出来る作業でもある)

むしろその《読む》力を備えている者を「演劇人」と呼びたい。 「わたし」の物語が読まれる時、「わたし」は「私がそこにいる(生きている)」と認識されている経験を持てる。それは他者との関係性の中で「いのち」が生きることそのものであると思う。

これは「演劇にできること」ではなく、「演劇人にできること」の話である。

谷瀬未紀
・ピカラック代表(演劇制作者)