『国境なき劇団 お話会 Vol.1』八巻寿文・田窪哲旨・福本年雄/2023年6月4日
日本各地で自然災害が頻発する近年。国境なき劇団は災害時の知見を共有し、今後起こりうる大規模災害に向け、迅速かつ、継続的活動を行うために、「四十七士つながるプロジェクト」と名づけて、協働する演劇人、劇場のネットワークを全国 47 都道府県に拡げようとしています。
今回の企画では、四十七士のお一人である田窪哲旨さんと福本年雄さん、国境なき劇団 共同代表の八巻寿文が、阪神・淡路大震災と東日本大震災が発生した当時の思いを個人の視点で語ります。
知見や、思いを共有することは、ここにいる自分と、遠いところで暮らす誰かを繋げてくれます。
このお話会が、皆さんと繋がる第一歩になれば幸いです。
八巻寿文(やまきとしぶみ)
国境なき劇団 共同代表
照明家・美術家・防災士
仙台市出身。高校卒業後フランスに留学。1977 年より舞台照明の仕事に就く。97-98 年文化庁芸術家在外派遣事業によりブリュッセル国際サーカス学校を拠点にベルギー~パリにて障がい者やヌーベルシルク(サーカス)と活動。
2001 年「せんだい演劇工房 10-BOX」立ち上げを機に美術家の活動を封印し運営 ・事業を実施。2016 年「せんだい 3.11 メモリアル交流館」立ち上げ。2019年より「せんだいメディアテーク」在籍、2022 年より野良に戻る。
田窪哲旨(たくぼてつし)
兵庫県立尼崎青少年創造劇場
ピッコロシアター 劇団部長
兵庫県劇団協議会理事
(株)京阪神エルマガジン社エルマガジン演劇担当、副編集長などを経て、1996 年からピッコロシアターで自主事業や兵庫県立ピッコロ劇団制作を担当。2018 年から現職。
福本年雄(ふくもととしお)
ウイングフィールド代表
演劇プロデューサー中島陸郎氏との出会いをきっかけに、1992 年自身の住居を改造し小劇場ウイングフィールドを創設。氏の逝去後もポリシーを引継ぎ、若手との共生、中堅、ヴェテランには新たな方向の実験場として運営を続ける。
厳しい大阪の演劇環境にあっても、創造する「場」を守るため、しなやかにしたたかにをモットーにスタッフ一同歩み続ける。2019年第 25 回ニッセイ・バックステージ賞受賞。
【日時】2023 年 6 月 4 日(日)15:00~17:00
【会場】国境なき劇団 事務所(大阪) 大阪市中央区東心斎橋 2-1-27 周防町ウイングス 5 階C号室
オンライン同時配信(アーカイブあり)
【参加費】無料(要予約/但し、活動のためのカンパを募ります)
【定員】会場 8 名 /オンライン 30 名程度
『国境なき劇団 お話会 Vol.1』アーカイブ動画公開/2024年2月23日
【開催報告】「お話会を終えて」
月刊WING HOT PRESS 2023 10月号【寄稿文】
国境なき劇団 共同代表 八巻寿文
「チャクーンジャ!チャカ!テロロテロロテロ(チーン)」リトルウィングのイントロをわざわざ文字で書かなくても良いんだが、無人島に一曲だけ持ってゆくならこれだと思うほど、とことん好きだ。
東北の仙台から「大阪ウイングフィールド」ってかっこいいな、と思っていた理由は、少なからず「ウィング」の響きを聞くたびに曲が脳内再生され胸がときめくからだ。そんなことを誰かに話してもしょうがないとずっと思っていた。
6月4日、ウイングフィールドの屋上で、一緒の出番を前にオーナーの福本さんと「紫の煙(Purple Haze)」をふかしながら、ウイングフィールドのウイングはリトルウィングのウイングだと聞いたときに、言葉を飲み込み30センチほど浮いて人生の至福に感謝した。
出番というのはピッコロシアターの田窪さんと三人での「お話し会」だ。田窪さんと肩の荷を下ろした素の状態で話す機会は初めてだったのかもしれない。
記憶に張り付いた絵は、すさんだ野戦病院で見上げた「大丈夫ですよ」と覗き込むスクリーンいっぱいの田窪さんの微笑みであり、その背景はいつも東日本大震災という黒色の戦場だった。「お話し会」の冒頭で、ウッとこみ上げる瞬間がありこらえたが、泣いてしまえればかなり気持ちよかっただろうと思う。
三人での「お話し会」は、震災後にたくさん企画された「シンポジウム」でも「討論会」でも「報告会」でもない。何の「お話し」なのかも決めていない。これまで意外に無かったスタイルの言い出しっぺは「国境なき劇団」の、共同代表の松岡優子(熊本)で進行がののあざみ(大阪)だから、震災に関連する話題なのは当然だが、震災中心にスタートするわけでも震災に終始するわけでもなく、それでも震災を機にそれぞれの経験を宿した三人のお話し会だった。
三人の共通点は、役者でも演出家でも劇作家でもなく演劇が生まれる場や空気に対して、もろ手を広げて抱きかかえている容姿だろう。微妙で意外なそれぞれの差異や、語る機会が無かった心境や背景について、たくさんの方々のお名前も自然に出たと思う。
お話しをするにも聞くにも、どこをつまんでも1トンを超える質量の話があふれ出てしまうから、この際、枝葉はともかく幹だけでもと触れていた気がする。
「お話し会」はゼッタイこれだ!と思ったものの、その理由をまったく説明できなかった。被災直後に現地で満開の桜を見た福本さんがARC>T白書に寄稿して下さった文章だ。
「・・・人々の受難とは別次元の北国の春の余りの美しさを目にした。禁断の風景を見てしまった罪悪感は今も心に重い」
この一文は特に、現地に立った人間でないと書けない「確かさ」を隠している。 日常がバラバラに破壊され泥のモノクロばかりが広がる足元のすべてと、見上げれば晴れ渡る青空に咲き誇る桜とが、どうしても一枚の絵に収まるはずがない戸惑い。それどころか、見てしまった罪悪感さえ残る。でも、たしかに絶望の中でも美しさはあったし、多くを失っても笑顔が出た瞬間はあったのだ。
「美しい」とは言えない苦しさは、被災した人間も口にできない、とても語りにくい体験だが、心に重い蓋をしてそれに気づかなかったか、気づかないふりをして来た。
いま、もう責めずに「美しい」と思っていいのかもしれない。あの日から「こんな日が来るとは考えられなかった」と立ち尽くす遠景の思いに、感謝がやっと追い付けそうだ。